上昇の系譜 — ピコ、アルベルティ、カント、ニーチェ、そして未来人
定まった座を持たぬもの
1486 年、二十三歳のピコ・デラ・ミランドラは、のちに『人間の尊厳について』と呼ばれる演説の草稿を書いた。そこで神はアダムにこう告げる――汝には定まった座も、固有の相貌も、特有の務めも与えなかった。汝はみずからの意志によって、下位の獣的なものへと堕ちることも、上位の神的なものへと再生することもできる、と(大意)。
ここに、上昇という理念の原型がある。人間は、他の被造物のように本性によって位置を定められてはいない。人間とは、みずからの形をみずから選ぶ存在である。 尊厳は、与えられた位置にではなく、その未決定性にこそ宿る。
注意すべきは、この自由が両方向にひらかれていることだ。堕ちる自由と、上る自由。どちらへ向かうかを決めるのは、本性ではなく意志である。
万能人という理想
同じ十五世紀、レオン・バッティスタ・アルベルティは、建築・絵画論・数学・文学・身体の鍛錬に通じた人物として語り継がれた。のちにブルクハルトが『イタリア・ルネサンスの文化』で描き出したように、ルネサンスはこうした多面の人を uomo universale――万能人――の理想として掲げた。
この理想が教えるのは、博識の量ではない。分野の境界を、一つの人格のうちで統合することである。建築を知る者が絵画を論じ、数学を知る者が身体の比例を測る。知は分野の内側で積まれるのではなく、分野のあいだを往還することで力を得る。
近代は、この理想をいったん手放した。知の総量が一人の人間の容量を超えたとき、専門分化こそが合理となったからである。
あえて賢くあれ
1784 年、カントは「啓蒙とは何か」という問いに答えて書いた。啓蒙とは、人間がみずから招いた未成年状態から抜け出ることである、と。未成年状態とは、他者の指導なしには自らの悟性を用いることのできない状態を言う。そして、その原因が悟性の欠如ではなく、決意と勇気の欠如にあるとき、その未成年状態は「みずから招いた」ものとなる。
Sapere aude――あえて賢くあれ。自らの悟性を用いる勇気を持て。
知能が外在化した時代に、この一句はかつてない切実さを帯びる。問えば答える器官を手にした者は、自らの悟性を用いる理由を、日々少しずつ失ってゆく。未来人の未成年状態とは、悟性の欠如ではなく、悟性を用いる必要の欠如によって招かれる。 それはカントの時代よりも、はるかに甘美で、はるかに抜け出しにくい。
深淵の上の綱
ニーチェのツァラトゥストラは、市場に集まった群衆に語る。人間は、動物と超人とのあいだに張り渡された一本の綱である――深淵の上にかかる綱である、と。人間において偉大なのは、それが目的ではなく橋であることだ。
綱の上では、立ち止まることが最も危うい。渡りかけた者にとって、静止は安息ではなく落下の予兆である。ここに「停滞は後退である」という命題の、最も古い形の一つがある。
未来人は、何を引き継ぐのか
この系譜を、知能が外在化した時代に置き直してみる。
- ピコから:人間は定まった座を持たない。知能を道具とした未来人の座は、なおいっそう未決定である。堕ちる自由と上る自由は、かつてなく大きくひらかれている
- アルベルティから:分野を一身に統べる理想は、近代において一度は不可能とされた。だが知能の器官を携えた者にとって、その不可能はふたたび可能の側へ戻りつつある
- カントから:未来人の未成年状態は、器官への全面的な委託によって招かれる。委ねることと手放すことを、区別しなければならない
- ニーチェから:上昇は到達点ではなく、渡りつづける営みである。綱の上に、引き返す岸はない
万能人の理想は、近代の専門分化によっていったん葬られた。それを墓から呼び戻すのは、皮肉にも、人間の知能を外へ取り出した機械の側である。ひとりの人間が分野を越えて統べうる範囲は、いま、ルネサンス以来はじめて、ふたたび拡がりはじめている。
今日の一段
系譜を知ることは、それ自体が一段である。だが系譜は、引き継がれてはじめて系譜となる。
上昇の地図 の七つの位相から一つを選び、その「最初の一段」を今日踏むこと。宣言の全文は 未来人宣言 に記した。
あえて賢くあれ。そして、上昇せよ。