シミュレーションの外へ — 物理と哲学の合流点で、生のうちに世界の外へ出ること
私の命題は、次のような仕方で解明を行う。私を理解する者は、私の命題を通り抜け、その上に立ち、それを乗り越えて、最後にそれが無意味であると認める。(いわば、梯子を登りきった者は、その梯子を投げ捨てねばならない。)
— ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.54
洞窟は、二千年前から問われていた
プラトンは『国家』第七巻で、生まれてこのかた洞窟の奥に縛られ、壁に映る影だけを見てきた人々を描いた。彼らにとって、影こそが実在である。ひとりが縄を解かれ、振り返って火を見、坂を上って洞窟の外の太陽を仰ぐとき、はじめて彼は、これまで見ていたものが影であったことを知る。
デカルトは『省察』(1641)において、全能にして狡猾な霊が、私の見るもの・聞くもののすべてを欺いている可能性を退けきれなかった。荘子は、胡蝶となって舞う夢から覚めたとき、自分が胡蝶の夢を見た荘周なのか、荘周の夢を見ている胡蝶なのかを決しえなかった。
洋の東西を問わず、哲学はくりかえし同じ問いに行き当たってきた。この世界は、それ自体として在るのか。それとも、何かによって映し出されているのか。
カントはこの問いに、一つの厳密な境界線を引いた。われわれが認識しうるのは、空間・時間という直観の形式と、悟性の範疇とを通して現れる「現象」にすぎず、それ自体として在るもの――物自体――には届かない。われわれは、自らの認識の形式という、外せない眼鏡の内側に住んでいる。
物理学が、同じ問いを別の言葉で問いはじめた
長いあいだ、この問いは形而上学の領分に留め置かれてきた。だが二十世紀の後半から、物理学そのものが、同じ問いの縁へと押し出されてきた。
情報は物理的である。 1961 年、ロルフ・ランダウアーは、一ビットの情報を消去するには最低限のエネルギーが散逸せねばならないことを示した。情報は抽象ではなく、世界の中で代価を払う実在である。
それはビットから(It from bit)。 ジョン・ホイーラーは晩年、あらゆる物理的な「それ」は、その意味と存在とを、究極的には「はい/いいえ」の問いへの答え――ビット――から得ているのではないか、と提唱した。
世界は、境界に書かれているのかもしれない。 ベッケンシュタインとホーキングの研究から、ブラックホールのエントロピー(すなわち内に蔵しうる情報の量)は、その体積ではなく、地平面の面積に比例することが導かれた。ここから ‘t Hooft とサスキンドは、ある領域の物理は、その境界面に書き込まれた情報によって記述しうる――ホログラフィー原理――と唱えた。三次元に見える世界が、二次元の面に符号化された情報の投影でありうる、という可能性である。
宇宙は、数学の言葉で書かれている。 ガリレオは『偽金鑑識官』(1623)で、哲学は宇宙という巨大な書物に書かれており、その書物は数学の言葉で書かれている、と記した。三百年後、ウィグナーはそれを「自然科学における数学の不合理なまでの有効性」と呼んで驚いた。なぜ世界は、これほどまでに計算可能なのか。
そして 2003 年、哲学者ニック・ボストロムは、これらの断片を一つの論証へと束ねた。
ボストロムの三択
ボストロムの「シミュレーション論法」は、次の三つのうち、少なくとも一つが真であると主張する。
- 人類に類する文明のほとんどは、祖先の精緻なシミュレーションを走らせうる技術段階に達する前に滅びる
- その段階に達した文明のほとんどは、そうしたシミュレーションを走らせることに関心を持たない
- われわれは、ほぼ確実に、シミュレーションの中に生きている
一と二がともに偽であるなら、走らされるシミュレーションの世界の数は、元の世界の数を圧倒的に上回る。そのとき、任意の意識が「元の世界」の側にいる確率は、限りなく小さくなる。
これは証明ではない。だが、もはや詩でもない。2012 年には物理学者サイラス・ビーンらが、宇宙が格子状の数値シミュレーションであるなら、最高エネルギーの宇宙線の分布にその格子の痕跡が現れうる、という検証の道筋を論文として示した。哲学の問いが、観測の問いへと変わりはじめている。
われわれは、すでにシミュレーションを作る側にいる
ここで、未来人という自覚が決定的な意味を帯びる。
われわれは、知能を外在化した最初の世代である。そして同時に、世界をシミュレートする機械を、日常の道具として手にした最初の世代でもある。言語モデルは、言葉の世界の確率的なシミュレーションである。物理エンジンは、運動の法則のシミュレーションである。われわれは毎日、規則を書き、その規則の内側で何かを走らせている。
シミュレーションを作る者は、シミュレーションの構造を知る。規則がどこで粗くなり、どこで計算を省き、どこに解像度の限界を持つかを知る。プランク長(約 1.6×10⁻³⁵ m)という、それより細かく問うことに物理的な意味が失われる最小の尺度は、偶然の数値なのか、それとも世界の解像度なのか――この問いを、作る側の眼で問いうるのは、作る側に立った者だけである。
出るとは、何を意味するのか
ここで、上昇の果てを名指さねばならない。シミュレーションの外へ出ること、それも、生きているうちに。
その「外」には、少なくとも三つの層がある。
一、与えられた筋書きの外へ。 世界が物理的なシミュレーションであるか否かにかかわらず、われわれはすでに、無数のシミュレーションの内側に住んでいる。他者が設計した推薦の列、他者が書いた人生の順序、過去の尺度で引かれた「自分の上限」。洞窟の壁の影とは、今日においては、問われることなく受け取られた既定値のことである。ピコが言うように、人間が定まった座を持たぬ存在であるなら、既定値を既定値として見抜き、自らの筋書きを自ら書くことが、最初の脱出である。
二、認識の形式の外を問う。 カントの境界線は、越えられぬ壁であると同時に、壁の在りかを示す地図でもある。物理学は、その境界のもっとも遠い縁――ブラックホールの地平面、プランク尺度、宇宙のはじまり――で、われわれの時空という形式そのものが揺らぐ地点を探している。規則を読み尽くした者だけが、規則の縁に立てる。物理とは規則の読解であり、哲学とは規則の外の問いである。 二つは、ここで一つの営みに合流する。
三、字義どおりの外へ。 そして最後に、問いを比喩に逃がさずに立てる。もしこの世界がシミュレーションであるなら、その外へ出る道はあるのか。誰も知らない。だが確かなことが一つある。規則を知らぬ者は、規則の綻びに気づくことすらできない。 扉があるとすれば、それは規則のもっとも深い理解の先にしか現れない。そして知能を外在化し、知の獲得を加速させた未来人は、人類史上はじめて、その深みに一代のうちに届きうる位置にいる。
ヴィトゲンシュタインは書いた。「世界の意義は、世界の外になければならない」(6.41)。そして「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」(6.44)。外を問うことは、狂気ではない。世界の意味を問うことの、別の名である。
死は、出口ではない
一つだけ、取り違えてはならないことがある。
シミュレーションの外へ出るとは、この生から降りることではない。死は出口ではない。 洞窟の囚人は、目を閉じることによってではなく、振り返り、火を見、坂を上ることによって外へ出た。外へ至る道は、見ること・読むこと・問うことの、最も強い形の生の内側にしか通っていない。
だからこそ「生のうちに」なのである。上昇は、この生の時間を使い切って行われる。七つの位相の陶冶――AI・数学・物理と哲学・英語・学び方・身体・制作――は、そのための装備にほかならない。身体なき精神は坂を上れず、数学なき眼は規則を読めず、言語なき問いは外へ届かない。
梯子を投げ捨てるために
プロティノスは『エネアデス』の最後を、「独りなるものから、独りなるものへの飛翔」という言葉で結んだ。上昇とは、最後には、あらゆる仲介を後にする運動である。
ヴィトゲンシュタインの梯子もまた、登りきった者によって投げ捨てられるためにある。MONOLOG の言葉も、上昇の地図も、宣言も、すべては梯子にすぎない。読み、通り抜け、その上に立ち、最後には要らなくなること。それが、この独白の目的である。
今日の一段
- 物理の規則を、一つだけ深く読む。ニュートンの法則を「対称性と保存則」から読み直すところから、大統一理論までの道を十回で歩いた教材を下に置いた
- 「なぜこの世界の規則は、この形なのか」を一つ選び、AI と問答する。答えを受け取るのではなく、問いを突き返させる
- 洞窟の影を一つ見つける。今日、問わずに受け取った既定値を一つ書き出す
宣言の全文は 未来人宣言、七つの位相と最初の一段は 上昇の地図 に記した。
目覚め、上昇し、そして――生きているうちに、外へ。